
2021年2月
前回の闘病記事で大事なことが書き切れていなかったので、遡って記す。
子宮摘出手術のその後
子宮摘出手術を受けた。
詳細は以下の記事にまとめているので、その続きを。
(記事をアップしてから時間が経ってしまっているのでリンク貼ります。)

妻の子宮摘出手術は無事成功した。
そして入退院を繰り返しながらも手術後の日々を安静に過ごした。
そんな日々の中で、医師から摘出した子宮の検査結果が共有された。
そう、今回の手術は治療のためではなく、検査のための手術だった。
あくまで検査のため。
手術がゴールではない。
ある日、妻と妻の両親と共に医師からの報告を受けに病院へ行った。
結論から言うと「子宮体がんという病名が付きました。」という報告を受けた。
2020年3月から病院にかかり始め、2020年8月に緊急入院。
そこから半年以上の時が経ち、遂に妻の症状に病名が付いた。
病名: 子宮体がん。
やはり、子宮の中にその原因となる細胞があった。
そして年月が経ちそれが特定された。
原因が特定出来たこと。
そして、子宮体がんという現実。
妻は、「自分の身体に起きていることが知りたい。その上で望みを見出すことができるなら闘いたい。」という一心でこの子宮摘出手術を覚悟し、医師と共にその大手術を乗り越えた。
縋ったわけではない。しっかりと冷静に選択していた。
自らの身体から子宮をうしなうこと。そして手術に伴う痛みに耐えること。それらと引き換えに検査を進めることを自らの意思で選んだ。
そして分かった。
子宮体がんであるということ。
改めてではあるが、ステージⅣであるということ。
妻はそれを強く受け止めた。
涙を溢しながら、強く受け入れた。
私は拳を固く握りながら、平静を装いながら、ただ隣りにいた。
震える妻の手を握ることしかできなかった。
医師は病状の報告に続けて、今後の治療方針について伝えてくれた。
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子宮体がんであることが分かったことで治療を継続する望みがある。
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子宮体がんに有効な抗がん剤がある。
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当初使っていた抗がん剤より身体への負担が少ない。
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しかし、抗がん剤治療・大手術を経た身体がどこまで治療に耐えられるかは未知。
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今後も苦しさは付き纏うが、力になりたい。
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当初の抗がん剤治療から時間が経っていることで、がんの転移スピードは元に戻りつつある。
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勢いを抑えるには同意すぐにでも次の抗がん剤治療を開始したい。
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現時点で推し量ることができる寿命は残り半年から一年。
医師から続けて受けた説明は上記のような内容だった。
その後に渡された書類は抗がん剤治療の同意書だった。
妻は首を縦に振ったので私はその場ですぐにサインをしようとした。
「書きたい。」
妻はそう言い、同意書に自分でサインをした。
同意書のサインはとてもドライだ。
特に身元引受書はドライを極めたような書類だ。
これまでの闘病に際して幾度となくサインをしてきた書類だが、今回のそれは重みを増していた。
サインをして看護師に書類を戻し、前方へ視線を戻すと医師は涙を溢していた。
絶対に救いたい。
医療に関わる一人間として、あなたを救いたい。
そう思わせる力をあなたから感じました。
そのような旨を涙ながらに妻へ伝えてくれた。
辛いと思いますが、私達に出来ることはなんでもやります。頼ってください。と。
遠慮がちな妻は入院中も我慢してナースコールをあまりしないのだという。
それもあり、もっと頼ってほしいという旨を伝えてくれた。
改めて、これからもよろしくお願いしますと頭を下げ、部屋を出た。
「一緒に聞いてくれてありがとう。」
ここに来ても崩れない基本姿勢。
この状況で第一に感謝を伝えられるかと言われたら私には正直なところ自信がない。
両親に家へ送ってもらい、ご飯を食べた。
重い報告を受けたあとだが、二人とも食事は問題なく摂ることができた。
そのあとは入院準備に取り掛かった。
抗がん剤の開始直後は長いスパンの入院になる可能性があるので、一週間分の必要物資を慣れた手付きで詰めていった。
またいつでも行くから。
タオルでもじゃがりこでもいつでも何でも持っていくから。
調子のいいときは電話しよう。
うん、ありがとう。連絡するね。
そんなごく普通の会話を交わして。
医師からの報告を受けてから数日で、新しい種類の抗がん剤治療を受けるべく妻は病院へ戻った。