師走の共有事項

2020年12月前半

不安な気持ちのままこの荒れ狂った年の師走を迎えた。
その不安の元凶はやはり大元となるがんがどこにあるか分からない状態であることだった。

呼吸器科にかかり4ヶ月が経過する頃、医師に招かれ作戦会議が開かれた。

仕事を切り上げ、深呼吸を挟みながら病院に向かう。
病院の周りは緑が豊かだったが、木が伐採され、残った木々の葉も落ちていたので心許ない姿になっていた。
そうして改めて感じる時の流れ。
2020年8月時点では考えることができなかった未来を妻と共に生きている。
形はどうあれ、その事実は少なからず我々の支えとして機能していた。

入院中の妻と久々の再開を果たし、程なくしてその会議は進行された。

  • 呼吸器外科として出来ることは最大限やりきった。

  • 呼吸器外科が科内でできることは正直なところもうない。

  • 当初から疑わしい子宮の筋腫と思われる箇所を探るほか、由理を救う手段はない。

  • そのために産婦人科に掛け合っている。

  • 産婦人科としてもリスクを負うことになるため、場合によっては断られる可能性もあるがまだ道は残されている。

  • 入院当初から産婦人科への連携は行っているため、受け入れられた場合はスムーズに検査の進行が出来る。

あとは呼吸器外科の担当医の交渉次第といったところの共有だった。
以前も書いた通り、妻と同性で同じくらいの年に見えるこの担当医の熱量は親族からしてもとても心強いものだった。
妻もしきりに「〇〇先生は凄いよ。私もあんな風に働きたい。かっこいい。」と尊敬の念を抱いていた。
時には涙を浮かべ、真摯に対応してきてもらってた。
今回も完全に委ねることにした。
というより、それ以外に選択肢は残されていなかった。

病院に出入りするようになって、自分たちでどうしてもコントロール出来ないものの存在を痛いほど知り、それを受け入れ、委ねる強さが必要なことを痛いほど感じてきた。
今回もそれに則るだけだ。
選択肢の少なさは時に人を癒やす。
進むか、終わるか。それしかないからだ。

そんな時にまた急展開があった。
肺から脳に転移したがんが活性化していたのだ。
脳への転移は早い段階からあったが、肺に比べて随分おとなしくしていたので今までフォーカスしてこなかったが、定期検診の結果確実に大きくなってきていることが確認できたという。

脳という特殊な臓器におけるがんの進行。
我々の不安を煽る材料として十分すぎるものだった。

しかし、これに関しては大きな問題はないとすぐに医師から説明をもらった。
医療の進化により、今では放射線照射による局所的な治療が出来るのだという。
手術自体も大袈裟なものではなく、日帰りで出来るとのことだった。
4週間連続で照射を行い、その上で様子を見ることになった。

現在の焦点は転移した先の進行を抑え、体調をなるべく悪化させず、大元となるがんがどこで発生しているのかをいかにして突き止めるか。

それに尽きる状態だった。

現状の理解と打開策がまだ残されていることを示してもらい、今回の会議が終わった。
恐ろしく疲れた。

人の命の話を、患者本人とその家族の前で冷静に展開する。
仕事とはいえ携わってもらっている医師たちには感服するばかりだった。

それを受けて自分が妻に対して出来ることを改めて見直すきっかけにもなった。
残酷な現実の中にも常に一縷の希望を見出だせたこと。
これは我々夫婦の絆がもたらすものであり一つの能力だったと思う。
必ずしも誰もが気付けるものではなかったはずだ。
そうした自信や自負を元に奮い立たせるようなことも無意識にやっていた。
そうでもしないと潰れてしまいそうだったからだろう。

こうして、呼吸器外科の皆さんへ感謝するとともに妻の闘病生活の第一章が幕を閉じた。

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